試合開始
AM3:30。いつも通りの時間に目覚めた私は、早速、朝のルーチンワークである治療院の掃除に取りかかりました。ダスキンモップで床を掃除していると、妻が起きてきました。寝るのが好きで、私が起こすまで、いや、起こしてもギリギリまで惰眠をむさぼろうとする妻が、こんな時間に起きてくるなんて、普通ではあり得ない事態です。
不安で心拍数が上昇するのを感じながら、努めて冷静に、私は掃除を終わらせました。起きてきたはずなのに、嫌に静かな妻が気になり、居間に行ってみると、妻がうずくまって寝ていました。声をかけてみると、「お腹が痛くて動けない」と訴えてきました。一家の中心である妻が動けないとなると一大事です。早速、鍼治療を試みる決断をしました。
決断というと、大げさに聞こえますが、妻は、ありとあらゆる腹痛治療を試してきた腹痛ソムリエなのです。半端な気持ちで治療に臨むと、こちらが大やけどし、鍼灸師としての何かが損なわれるリスクがあります。鍼灸師として負けられない闘い。そのために、本気の決断が必要になってくるのです。
腹痛ソムリエ
妻は、幼少期から腹痛に悩まされてきました。精神的なプレッシャー、環境の変化、食べ合わせなど、ちょっとしたことでも、お腹がピーピー鳴ってしまいます。何とかしようと、あらゆる治療を試してきたといいます。
あそこの内科が良いと聞けば、よりよい診断と薬の処方を求めて、内科巡礼を繰り返し、漢方が良いと効けば、評判の漢方薬局の個人面談を何カ所もまわり、ナチュラル系が元々好きなため、試したアロマやサプリは数知れず。怪しげな民間療法にも精通しています。
しかし、結果に満足したことがなかったようで、それぞれの治療法に対しての辛辣な言葉をよく聞きます。そんな、腹痛ソムリエの妻に対して、いい加減な気持ちで治療に臨むことはできません。早朝から、本気モードの治療に臨みました。
鍼灸治療と腹痛
鍼灸というと、肩こり、腰痛のイメージが強いかもしれませんが、腹痛など、内臓系の不調に対する治療も得意分野です。
いや、むしろ、歴史を振り返ってみると、内臓系の治療の方がメインで発展してきた事がわかります。
遙か昔、鍼灸は中国の王侯貴族向けの治療でした。中国の王侯貴族は、とにかく動かず、横になっていることが多かったと言います。体を使う作業は、自分ではなく、仕えてるものにやらせるのがカッコいいという価値観がありました。
当然、体の不調は、運動系の痛みではなく、内臓系のものが多くなります。その治療法として重宝されていたのが、漢方であり、鍼灸でした。
鍼灸は、内臓系の不調を整え、体の流れを良くし、長生きさせることを目的として行われていたのです。
整動鍼と腹痛
私が現在取り組んでいる「整動鍼」は、従来の鍼灸(流れを整えることが得意)の弱点であった、「動きを整える」ことにフォーカスした鍼の治療法です。
そのため、「腹痛」など、内臓系の不調に対する治療(流れを整える治療)のイメージは希薄かもしれませんが、実は、それに対しても、強力な効果を持っています。
「脊柱編」「四肢編」「腹背編」と3つに分かれている整動鍼のカリキュラムのうち、「腹背編」が、流れを整える治療へとつながる内容となっています。
正直、私は、流れを整える治療効果については、整動鍼に期待していませんでした。もともとやっていた経絡治療が流れを整えるのが得意なため、運動器系は整動鍼、内臓系は経絡治療にしようと考えていました。しかし、「腹背編」受講後、整動鍼の内臓系への効果があまりにも優れていたため、経絡治療をやめてしまいました。
なぜ効くのか
なぜ、鍼治療が内臓系の不調に効くのか?
体制内臓反射が関わっているのではないかと言われていますが、はっきりとしていません。マウスの実験で、マウスの足三里に鍼を打つと、胃の働きが調整されることは確認されています。
この働き、整動鍼の視点から見ると、すごく面白いです。
例えば、ストレス性の胃痛について考えてみましょう。
人間はストレス下にあると、体が戦うモードとなり、自律神経のうち、交感神経が優位になります。
戦っているとき、食べている場合じゃないし、トイレに行ってる場合じゃないので、体は意図的に交感神経を優位にすることで、胃や腸などの内臓の血流を落として、働きを抑えます。
戦いが短時間であれば、なんの問題もないのですが、長時間になってくると、本来、うまく処理できるはずの胃酸が胃に滞留して、胃を溶かしてしまいます。結果、胃もたれや、胃痛が起こります。
胃の痛みがあると、胃を守ろうとして、周囲の筋膜にも緊張が生まれます。お腹が緊張しているわけですから、連動して、体の動きのバランスも変わります。結果、足や、手など本来はそれほど負担が掛からない場所に緊張がうまれ、コリになっていきます。
この、連動性のバランスが崩れた結果、コリが出る場所がツボだと考えられます。
このコリを鍼で緩めると、興味深い反応が生まれます。
ツボが緩められると、動きの連動性が回復します。連動性が回復すると、お腹の筋膜も緩みます。お腹の筋膜が緩むと、脳がもう問題ないと考え、交感神経の興奮を抑え、内臓の血流が戻り、働きが回復します。
結果、胃痛が治まります。
整動鍼によって、体の動きを整えると、お腹の筋膜の動き(緊張)の調整を通して、自律神経への働きかけ、内臓系の不調の改善が可能となるようです。
とても、興味深い理屈です。
症例数は無数にあり、再現性も高いので、現象としては間違いないと思いますが、科学的・医学的実験データが、まだ十分にあるわけではないので、推論の域を出ていませんが。
従来の鍼灸は、この理屈はないけど、経験則的に、足三里などを使い、内臓系の調整をしてきました。
整動鍼は、例えば「足三里」がお腹のどのポイントに効果があるかを詳細に探っています。結果、親指大くらいの精度で、お腹のどの部分が、どのツボに対応しているか明らかにしています。「足三里」が、お腹の症状に効くときと効かないときがあるのは、このポイントとずれているからです。逆に、このポイントと、対応するツボを知っていれば、お腹の痛みに対して、治療法を迷うことがありません。
「整動鍼」でこの理屈に出会い、実際に治療してみて再現性の高さを経験すると、病みつきになります。
さらに、驚くことに、整動鍼と経絡との関係性が何となく見えてきます。経絡理論をリセットすることから始まった整動鍼が、一周回って、経絡をより理解するヒントになるなんて、鍼灸師として感動を禁じ得ません。
結果
妻の腹痛は、生理痛と食べ過ぎによる腸の不調が合わさったモノでした。整動鍼「腹背編」に基づき、二つのツボに鍼をしました。
鍼をした瞬間に、妻のお腹がグーッと鳴り、驚く妻を見ながら、勝利を確信しました。
5分後、もう、ほとんどお腹の痛みがなくなったと妻が言います。
腹痛ソムリエが嘘を言うことはありません。その証拠に、その後、妻は朝のラジオ体操に問題なく参加し、眠くてぐずる息子の抱っこも不安なくできていました。
妻は言います。「今まで、漢方やサプリや、あなたの鍼灸も含めて、いろんなモノを試したけど、整動鍼が一番効くわぁ。他のは効かない上に、好転反応の名を借りた変な副作用があったりしたけど、整動鍼はそれもないし。そういう風にデザインされてるんだね。考えた栗原先生すごいねー」と。
実際に施術した私への賞賛がないのが気になりましたが、「鍼灸師の妻で良かったね」と私が言うと、「うん、得したね!!」と妻が言い、一緒に笑いました。
妻の幸福度が、男性の寿命と相関関係にあると、以前、何かの記事で読んだことがあります。
今回の早朝決戦の勝利で、少し寿命が延びたかもしれません。